愚痴も弱音もありまくる日々

日々の日記、考えたことなど、何でも。

1.8

自分の思いを好きに吐き出せる場所が欲しくて、このブログを始めた。

どこにも持って行き場のない感情が、心の中でふつふつとしていて、自分でもどうしようもないほど持て余していた私にとって、このブログは精神の安定剤のような役割がある。

 

でも、精神的な余裕がなければ、文章を書く余裕もないんだという話を見かけて、たしかにそうかもしれない、と思った。

 

私は、文章を書くことで精神の安定を保っているつもりだったけれど、精神がそこまで乱れていないから文章が書けるのかもしれない。

本当に病んでしまったら、人は文章を書こうという気力すらなくなるのかも。

 

あと、とても忙しくて日々の生活に余裕がないときも同じ。

文章を書くには「余裕」が必要なのか、なるほど。

 

でも、誰かに「余裕があるんだね」と言われたら、否定したくなるんだけど、これは天邪鬼なのかしら。

精神の安定のためにブログを書いているのだから、余裕があると言われたら、真逆ですけど??となりそうな予感しかない。

 

かといって「私は切羽詰まっています!助けてください!!!」というのも違う。

安定と不安定の境目をウロウロとしていて、定まらない中を生きているのが人間なのではなかろうか?

 

なんかテーマが突然大きくなった。

言いたいことが定まらない。

そんな時もある。

むしろそんな時しかない。

1.7

今日まで日記のタグをつけていたけれど、私がこのブログにつけるタグは違っているのかも、と気づいた。

日記だとどうしてもその日の出来事とか書かなきゃ!と思ってしまう。

でも私が書きたいのは、その日に感じたこと、考えたことなどなので、日記と称するにはどこか違っているようにも思う。

深く考えすぎかも。

 

「雑談」というタグを見つけた。

あぁ、なんかしっくりくる。

なんでも喋っていいよ、と言われているような安心感を抱いた。

勝手だけど、安心感って大事。

何かを続けていこうと思っているときは特に。

 

久しぶりに二階堂奥歯さんの『八本脚の蝶』をパラパラとめくった。

最初に読んだ頃からずっと、私は二階堂さんの文章をどうとらえたらいいのかわからないままなんだけど、年に何度か手に取りたくなって、パラパラとめくっては本を閉じってことをくり返している。

 

本の引用だったり、出かけた記録だったり、終盤は精神的に追い詰められていく二階堂さんの、あっちこっちへと飛び回っている感じの思考を、自分の中へどんどん吸収していく感じの日記が、私はいつだって少し恐ろしい気がしている。

けれどこの本を手放そうとは思わないし、ずっと手元にいてもらうつもりでいるんだから、本の魅力って本当によくわからないな、と思う。

 

日記を読んでいると、突拍子もないことがたびたびあったりするんだけど、でも思考が一貫している人なんていないし、その日その日の出来事で人の感情なんて大きく変わるから、二階堂さんの日記は突拍子もないことでもなんでもない、これが普通なんだよねってことを、私は本を開くたびに思い出すし、本を閉じたら忘れてしまう。

 

きっと私は一貫している人が正解だと思っている。

正解って何だろう。

私はいつも正解を探している。

正解が見つかれば安心だとでもいうように。

 

正解は見つかっても安心できるとはかぎらないってこと、この年になれば気づいてもいるっていうのに、私はまだ正解や正しさから抜け出せない。

1.6

やはり、その日にあったことを、その日に書くほうが日記としても書きやすいと気づいた。

しかしそうすると、毎日更新しないといけない気がして、焦りが生まれそう。

 

最初に決めておくしかない。

毎日更新なんて、そんな大変なことを私はするもんか。

 

と思いながらも、ここまで毎日パソコンに向かえている。

私はどうも吐き出すことが好きらしい。

自分の気持ちをダラダラ話すって楽しいよね。

みんなやったらいいのに。

いや、もうやってるのかな。